スタッフヤマガタン(ヤマガタン事務局)
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歌聖 斎藤茂吉(さいとうもきち)逆白波、赤光、白き山、
1882〜1953
歌人、医師。山形の鴎外と歌われた。
上山市金瓶(南村山郡金瓶村)生れ。
農家守谷熊次郎の三男。
「最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片」
「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」
「蛍火を一つ見いでて目守りしが いざ帰りなむ老の臥所に」
「高原の沼におりたつ鸛ひとつ山のかげりより白雲わきて」
「足乳根の母に連れられ川越えし田こえしこともありにけむもの」
「朝ゆふはやうやく寒し上山の旅のやどりに山の夢みつ」
「陸奥をふたわけざまに聳えたまう蔵王の山の雲の中に立つ」
「たましひを育みますと讐えたつ蔵王のやまの朝雪げむり」
「万国の人来り見よ雲はるる蔵王の山のその生けきを」
逆白波、赤光、白き山、赤蜻蛉、つばくらめ、白雲、乳汁の色など
色彩表現豊かな短歌を多く残した。
明治29年上山小学校高等科を卒業したが、8月上京して親戚の斎藤紀一家に寄寓し府立開成中学に編入学した。紀一は当時浅草で浅草医院を経営していたが、成績のいい茂吉を招き、進学の道をひらいたといわれる。
38年7月斎藤家に入籍、同月一高を卒業し、東大医科大学に進んだ。
39年自作を添えて伊藤左千夫に手紙を送り、それを機に3月自宅を訪ねて入門。
明治41年10月「阿羅々木」(アララギ)が創刊され、左千夫とともに積極的に活動する。また、「アララギ」の編集を担当し、活発な作歌、評論活動を行った。その後新歌風への脱皮をめざしたが、文壇の動揺期にあって、左千夫と対立論争をよぶなど波乱の時期を経る。
大正12年7月左千夫が急逝し、「アララギ」の中心世代の交替をみるが、10月「赤光」が出るにおよんで茂吉の存在が広く一般に注目をひくに至った。
大正3年4月、紀一の次女てる子と結婚。
12月長崎医専教授となり同地に赴任したが、一種のゆきづまりに直面し、一時作歌活動を中断する。
大正10年10月ウィーンおよびミュンヘンに留学。
14年1月帰国したが、その直前に青山脳病院全焼の非運があり、再建のために困難な生活を送った。
しかし、再び歌壇に登場した歌は大正中後期の沈滞を脱し、気概に満ちた万葉調によって新しく「ともしび」の歌境をひらくに至った。島木赤彦死去(大正15.3)後は「アララギ」をも背負っての活動も続けた。
昭和2年4月に青山脳病院長に就任。翌年末には養父紀一の死を見送った。その後生活の安定化にともなう歌境は漸次洗練と平淡の道をたどった。「暁紅」「寒雲」「白桃」 は戦前の代表作であるが、そこには秘められた恋愛にからむ微妙な心情の襞も陰見し、全体として悲哀、寂蓼の感が深い。
昭和20年4月、郷里金瓶に疎開した茂吉はそこで敗戦を迎えるが、一国の非運に逢会しての悲歌は痛哭の情を極めて比類がない。
昭和21年2月、大石田に移居した茂吉は、そこで生涯の高峰「白き山」の歌をなし、22年11月帰京した。次いで「たかはら」「連山」「石泉」の三歌集を刊行した。
昭和26年文化勲章受章。
28年自宅で没した。戒名は自撰の「赤光院仁誉遊阿暁寂清居士」。
日本近代文学館「日本近代文学大事典」より引用
斎藤茂吉歌集 岩波文庫
内容(「BOOK」データベースより)
茂吉(1882‐1953)は近代短歌の第一人者であり、日本の近代精神を体現した文学者の一人でもある。40年にわたる作歌活動によって生まれた全短歌から1688首を精選した。初期の生命感の躍動するなまの表現から、次第に複雑な人生の味わいをたたえる沈静へと移ってゆく。本歌集は、茂吉という個性あふれる作家の、精神の自叙伝でもある。
目次
赤光
あらたま
つゆじも
遠遊
遍歴
ともしび
たかはら
連山
石泉
白桃〔ほか〕
赤光 岩波文庫
出版社/著者からの内容紹介
万葉以来の日本的伝統と西欧近代の精神と,作者その人の生との完全な融合を示して,茂吉および「アララギ」の歌壇での位置を決定した歌集.強烈な人間感情の表出は,一般文芸界にも衝撃を与えた.作者みずから定本とした改選版に,発表当時ひろく反響を呼んだ初版本(大正2年刊)を付載.新たに初句索引を付す.(解説=柴生田稔)
内容(「BOOK」データベースより)
万葉以来の日本的伝統と西欧近代の精神と、作者その人の生との完全な融合を示して、茂吉および『アララギ』の歌壇での位置を決定した歌集。強烈な人間感情の表出は一般文芸界にも衝撃を与えた。作者みずから定本とした改選版に、発表当時大きな反響を呼んだ初版本(大正2年刊)を付載。初句索引を付す。
目次
自明治三十八年至明治四十二年
明治四十三年
明治四十四年
大正元年
大正二年
初版赤光
事務局
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歌人、医師。山形の鴎外と歌われた。
上山市金瓶(南村山郡金瓶村)生れ。
農家守谷熊次郎の三男。
「最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片」
「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」
「蛍火を一つ見いでて目守りしが いざ帰りなむ老の臥所に」
「高原の沼におりたつ鸛ひとつ山のかげりより白雲わきて」
「足乳根の母に連れられ川越えし田こえしこともありにけむもの」
「朝ゆふはやうやく寒し上山の旅のやどりに山の夢みつ」
「陸奥をふたわけざまに聳えたまう蔵王の山の雲の中に立つ」
「たましひを育みますと讐えたつ蔵王のやまの朝雪げむり」
「万国の人来り見よ雲はるる蔵王の山のその生けきを」
逆白波、赤光、白き山、赤蜻蛉、つばくらめ、白雲、乳汁の色など
色彩表現豊かな短歌を多く残した。
明治29年上山小学校高等科を卒業したが、8月上京して親戚の斎藤紀一家に寄寓し府立開成中学に編入学した。紀一は当時浅草で浅草医院を経営していたが、成績のいい茂吉を招き、進学の道をひらいたといわれる。
38年7月斎藤家に入籍、同月一高を卒業し、東大医科大学に進んだ。
39年自作を添えて伊藤左千夫に手紙を送り、それを機に3月自宅を訪ねて入門。
明治41年10月「阿羅々木」(アララギ)が創刊され、左千夫とともに積極的に活動する。また、「アララギ」の編集を担当し、活発な作歌、評論活動を行った。その後新歌風への脱皮をめざしたが、文壇の動揺期にあって、左千夫と対立論争をよぶなど波乱の時期を経る。
大正12年7月左千夫が急逝し、「アララギ」の中心世代の交替をみるが、10月「赤光」が出るにおよんで茂吉の存在が広く一般に注目をひくに至った。
大正3年4月、紀一の次女てる子と結婚。
12月長崎医専教授となり同地に赴任したが、一種のゆきづまりに直面し、一時作歌活動を中断する。
大正10年10月ウィーンおよびミュンヘンに留学。
14年1月帰国したが、その直前に青山脳病院全焼の非運があり、再建のために困難な生活を送った。
しかし、再び歌壇に登場した歌は大正中後期の沈滞を脱し、気概に満ちた万葉調によって新しく「ともしび」の歌境をひらくに至った。島木赤彦死去(大正15.3)後は「アララギ」をも背負っての活動も続けた。
昭和2年4月に青山脳病院長に就任。翌年末には養父紀一の死を見送った。その後生活の安定化にともなう歌境は漸次洗練と平淡の道をたどった。「暁紅」「寒雲」「白桃」 は戦前の代表作であるが、そこには秘められた恋愛にからむ微妙な心情の襞も陰見し、全体として悲哀、寂蓼の感が深い。
昭和20年4月、郷里金瓶に疎開した茂吉はそこで敗戦を迎えるが、一国の非運に逢会しての悲歌は痛哭の情を極めて比類がない。
昭和21年2月、大石田に移居した茂吉は、そこで生涯の高峰「白き山」の歌をなし、22年11月帰京した。次いで「たかはら」「連山」「石泉」の三歌集を刊行した。
昭和26年文化勲章受章。
28年自宅で没した。戒名は自撰の「赤光院仁誉遊阿暁寂清居士」。
日本近代文学館「日本近代文学大事典」より引用
斎藤茂吉歌集 岩波文庫
内容(「BOOK」データベースより)
茂吉(1882‐1953)は近代短歌の第一人者であり、日本の近代精神を体現した文学者の一人でもある。40年にわたる作歌活動によって生まれた全短歌から1688首を精選した。初期の生命感の躍動するなまの表現から、次第に複雑な人生の味わいをたたえる沈静へと移ってゆく。本歌集は、茂吉という個性あふれる作家の、精神の自叙伝でもある。
目次
赤光
あらたま
つゆじも
遠遊
遍歴
ともしび
たかはら
連山
石泉
白桃〔ほか〕
赤光 岩波文庫
出版社/著者からの内容紹介
万葉以来の日本的伝統と西欧近代の精神と,作者その人の生との完全な融合を示して,茂吉および「アララギ」の歌壇での位置を決定した歌集.強烈な人間感情の表出は,一般文芸界にも衝撃を与えた.作者みずから定本とした改選版に,発表当時ひろく反響を呼んだ初版本(大正2年刊)を付載.新たに初句索引を付す.(解説=柴生田稔)
内容(「BOOK」データベースより)
万葉以来の日本的伝統と西欧近代の精神と、作者その人の生との完全な融合を示して、茂吉および『アララギ』の歌壇での位置を決定した歌集。強烈な人間感情の表出は一般文芸界にも衝撃を与えた。作者みずから定本とした改選版に、発表当時大きな反響を呼んだ初版本(大正2年刊)を付載。初句索引を付す。
目次
自明治三十八年至明治四十二年
明治四十三年
明治四十四年
大正元年
大正二年
初版赤光