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上杉鷹山と細井平洲―人心をつかむリーダーの条件
内容(「BOOK」データベースより) 見事に復興なった米沢の地で平洲と鷹山は再会をはたした。二人とも無言で頭を下げ、目には涙があふれている。もはや師弟の間に言葉はいらなかった。―崩壊寸前の米沢藩をたて直した藩主・上杉鷹山。その苦しい藩政改革を陰で支えたのは師・細井平洲の教えだった。かの吉田松陰や西郷隆盛をも感動させたという細井平洲の思想とは?師弟の温かい触れ合いを通してその真髄にせまる。 目次 プロローグ 上杉鷹山の師、細井平洲 第1章 実学者・細井平洲の思想―現実感覚なきリーダーの戒め 第2章 改革の始まり―「民の父母」思想に共鳴した鷹山 第3章 教科書『嚶鳴館遺草』―真の経済の道とは何か 第4章 鷹山・改革の本質―リストラのためには何が必要か 第5章 「心の壁」への挑戦―人心をつかむリーダー ...もっと詳しく |
1751〜1822
米沢藩主。再建の達人。 「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、為さぬは人の為さぬなりけり」 江戸一本松藩邸生れ。 日向国高鍋藩主秋月種美の二男。幼名松三郎、のち直松。 1760年上杉重定の養子として江戸桜田の米沢藩邸に移る。 1766年元服、弾正大弼に任ぜられ、治憲と称し翌年襲封し【鷹山】と号す。 1785年隠居するまでは藩主として、また隠居してからは藩主治広の後見役として引きつづき40数年間その政治をみた。儒者細井平洲、医師藁科貞祐の影響を強く受け、家臣莅戸善政を重用して藩政の根本的な改革にあたり、秋田藩主佐竹義和、白河藩主松平定信とともに、寛政期の藩政改革を指導した三名君の一人に数えられた。 彼の襲封当時の米沢藩は財政困難におちいっていたため、重臣の反対をおしきり、みずから奥女中の数を一時に50余人から9人に減じたり鋤をとるなどして緊縮政策を推進した。 とくに、農村の復興につとめ、家臣にも開墾を奨励し、飢饉にそなえて備籾倉を設置、天明の飢饉には1人の餓死者も出さなかったという。積極的に副業の奨励に力を用い、桑、楮、漆等の栽培を指導して回り、京都や越後国小千谷の職人を招いて、製糸技術を改良し、織布技法の輸入をはかった。藩主みずからが産業技術取得の先頭に立ったので家中の工業が大いに興り、米沢の織物は江戸に売り出されて声価を高めた。 また、藩校興譲館を建て学問を奨励し西洋医学も採用。しかし改革の財源を江戸の三谷家や本間家にたよったため、改革の成果をこれらの豪商に吸いあげられ、財政難はなかなか解決しなかったといわれる。 明治5年、旧士族の運動により、藩祖謙信とともに上杉神社に祀られた。また明治35年、摂社松ヶ崎神社に祀られた。米沢市内には、両神社の他に餐霞館遺跡、藉田の遺跡、文部省史蹟、「一字一涙の碑」等多くの史跡が保存されている。 「日本歴史大事典」 参考 ・代表的日本人 岩波文庫 内村 鑑三 (著), 鈴木 範久 (翻訳) 1 西郷隆盛―新日本の創設者 2 上杉鷹山―封建領主 3 二宮尊徳―農民聖者 4 中江藤樹―村の先生 5 日蓮上人―仏僧 内村鑑三(一八六一―一九三〇)は,「代表的日本人」として西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮の五人をあげ,その生涯を叙述する.日清戦争の始まった一八九四年に書かれた本書は岡倉天心『茶の本』,新渡戸稲造『武士道』と共に,日本人が英語で日本の文化・思想を西欧社会に紹介した代表的な著作である. |
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