スタッフヤマガタン(ヤマガタン事務局)

東青田公園すぐ側の西洋料理が気軽に味わえるお店クロ−デイ。
シェフのおまかせランチはいろんな味が贅沢に愉しめる人気のメニュー。
特にビーフシチューがオススメです。

サラダとライスに美味しいトアルコ トラジャコーヒーがつきます。
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もっちりさっくり生地に
熱々チーズたっぷりのっかった
ろかーれのピザ!
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山形市七日町の元「glory/グローリー」がイオン山形南(南ジャスコ)の近所に移転しリニューアルオープンしたレストラン&カフェ《いる・くぉ〜れ》です。
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山形市の通称ムーミン谷の近辺にある老舗レストランデラシネ。ここのカレーは、牛肉やお野菜をじっくりコトコト1週間煮込んだ本格派です。写真はカレーとグラタンと自家栽培の新鮮野菜のサラダをセットにしたものです。
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月替わりのゆぴあ定食です。写真は秋の「鮭定食」680円です。
秋シャケと天ぷらおひたし等ボリューム満点です。
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和風だしのきいたスープに中華麺。天童市〜山形市周辺ではお馴染の鳥中華ゆぴあ版です。
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ビスマルクは半熟タマゴがのったピザです。
本格窯焼きクリスピータイプの薄焼きでパリパリのピザ生地がたのしめます。

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山大医学部近郊のイタリア料理のお店ロカーレのスープスパゲッティです。
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米沢牛のステーキやカレー・焼肉・ハンバーグの盛り合わせ等が好評な童夢さんの「きのこ入りコーンスープスパゲッティ」です。
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米沢牛入りのハンバーグが人気の
童夢(どうむ)のリーズナブルなランチ。
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「裁判大噴火 〜若手芸人渾身の裁判傍聴記」 河出書房新社
阿曽山大噴火 (著)

内容(「BOOK」データベースより)

マッドシティを跋扈する無法者と、正義の使者・検察官との、リアルファイトが炸裂。そこに現出するドラマよりドラマチックな人生模様を見よ。非教訓的裁判傍聴のススメ。

内容(「MARC」データベースより)

石原裕次郎の弟という被告に、本当かと真顔できく裁判官、強盗致傷事件をエロ事件へと暴走させる検察官など、裁判傍聴をライフワークとする著者が全国の裁判所で起こった悲喜こもごもの出来事をレポート。面白さ大噴火の本。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

阿曽山 大噴火

本名阿曽道昭。
1974年09月27日/山形県生まれ
B型

千代田工科芸術専門学校卒業後テレビ番組ADなどを経て、大川興業所属。テレビ、Vシネマ、ライヴ等で活躍する他、4本の雑誌連載を抱える。漫才コンビ「家なき大工」としても活動中(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


阿曽山大噴火(あそざんだいふんか、1974年9月27日-)は、大川豊興業所属の芸人。本名、阿曽道昭(あそ みちあき)。山形県出身。

自身の趣味でもある、通算8000回以上の裁判傍聴を生かしたネタや、執筆活動をしている。

2006年9月5日の堀江貴文被告第2回公判の傍聴時に、一般人として「報道ステーション」のインタビューを受けた。

髭、スカート、髪型など格好が奇抜なため、とても目立つ。

裁判中の被告や証人らのクセや言動の回数をチェックして、それをネタにする事が多い。

阿曽山大噴火(あそざん・だいふんか)

本名:阿曽道昭。1974年9月12日生まれ、山形県出身。

大川豊興業所属。趣味は、裁判傍聴、新興宗教一般。チャームポイントはひげ、スカート。裁判ウオッチャーとして数多くの裁判を傍聴。月刊誌「創」に裁判傍聴日記の「アホバカ裁判傍聴記」を連載している。主な著書に「裁判大噴火」(河出書房)。

 パチスロはすでにプロの域に達している。また、ファッションにも独自のポリシーを持ち、“男のスカート”にこだわっている。定住する家を持たない自由人。パチスロと裁判傍聴で埋めきれない時間をアルバイトで費やす日々。
眼の伝説
著者/阿部岩夫(あべいわお)
国文社
ISBN ISBN4-7720-0300-2 C0092


阿部岩夫(あべ いわお、1934年1月20日- )
山形県鶴岡市出身

法政大学文学部卒業。若いころは政治運動に身を投じ、獄舎につながれた肉体的・精神的苦痛から幻影をみる詩集「眼の伝説」「不覇者」故郷庄内地方の即身仏信仰をテーマとした「月の山」、難病に陥った中で、病者の意識を追い、迫力に満ちた「ベーゲェット氏」では第19回「高見順賞」を1989年に受賞した。


概要

病院や拘置所の限定された空間に現実のすべてが投影されていると触知したとき、詩人の目は同時に歴史的記録者となり、身体の必然的な内部告発者となる。阿部岩夫待望の第二詩集。

目次

序説
冬の夢
夏の朝
日々の彼方に
朝の夢
冬の朝
夢のたびに
1868〜1928

「亀の尾」の創始者。東田川郡小出新田村。百姓。

18才のとき政府の「済救趣意書」に感激し、土地の改良と稲の選定に一生をかけた。始めは余目村の老農佐藤清三郎によって、湿田の乾田化と東北の気候にあう寒冷に強い早生稲を選ぶことの必要を学んだ。

また、1891年(明治24年)酒田の本間家が、乾田化、馬耕のために福岡県から伊佐治八郎を呼んで伝授させたが,亀治はこれを視察して帰村すると、ただちに濠を掘り乾田化にのりだし、馬耕を始めた。周囲の笑いをものともせずにこれに取り組み、強力に部落への普及に努めた。そしてこうした新しい技術に適応できる新品種を捜し続けた。

明治29年9月26日、立谷沢の中村にある熊谷神社の例祭に詣でた時、行く道々の水田が冷害で惨擔たる中に、見事な穂をつけた不思議な稲を発見して穂を持ち帰った。翌年からこの穂種の試作に取り組み、4年後の1897年には在来種を圧倒する優秀なものとして固定した。この年はこの地方はウンカの大被害を受けたが、亀治の田だけは被害がほとんどない上作で、これをみた親友の太田頼吉はこの穂種に「亀の尾」と命名した。翌年には大和村中に広がり、庄内平野はもちろん県外にも種子が送られた。

1907年頃には東北六県ををうめ尽くす勢いとなった。

1906年最上川左岸の開発を同志とともに着手し、耕地整理組合を組織、吉田堰の開削工事を起こした。これは大和・得川、その他五ヵ村の原野を美田とするものであった。4年の歳月をかけ1911年工事は完成し、1913年(大正2)には大和村全域 650歩の耕地整理を指導し、乾田化することができた。

1927年には藍授褒賞が下賜され、村・郡・県の農会が中心になって亀治翁頌徳碑が、小出新田の八幡神社境内に建立され、病床にあった亀治には二千円の養老金が贈された。

「亀の尾」は東北の王者として一世を風靡し、その作付けは20万町歩に及んだが、のちドイツから科学肥料が輸入されるようになると、稲熱病に弱くなり、「陸羽 132号」さらに「農林1号」へと改良され発展的解消をとげた。

※青木恵一郎氏「農林水産業につくした人々」より引用