スタッフヤマガタン(ヤマガタン事務局)

● 歴史メモ
1974年に廃止された三山線(さんざんせん)の寒河江は羽前高松駅(ぜんたかまつえき)の駅舎看板です。

三山線は、山形県寒河江市の羽前高松駅と西村山郡西川町の間沢駅を結んでいた山形交通の鉄道路線です。出羽三山(月山/湯殿山/羽黒山)の参拝者等で賑わいっていたようです。


六十里越 関の茶屋

西川町砂子関字八ッ楯沢158−130

TEL 0237-75-2555

【営業時間】

 AM 9:00〜PM 5:00(冬期間休館)

【定休日】

 毎週水曜日
 ※営業時間・定休日は季節により変更がございます。
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文翔館は議場ホール前から見た「山形メディアタワー」です。
大石田町の最上川河岸には舟が何艘もあります。写真は「維新丸」です。
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西蔵王の土坂(旧 草谷倉)に地元に人に親しまれる湧き水《阿弥陀清水/あみだすず》があります。
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ゆるやかな松川と流れの速い白川が、長井市で合流し「最上川」となります。松尾芭蕉が奥の細道の途中に詠んだ句は余りに有名です。『五月雨を集めて早し最上川』
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山形市釈迦堂にある唐松観音(からまつかんのん)は、最上三十三観音第五番札所で山形の秋の風物詩「芋煮会」のメッカ馬見ヶ崎川の上流です。

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山形市最上義光公の菩提寺《曹洞宗・光禅寺の桜》です。光禅寺には最上義光公をはじめ、最上家親や義俊父子、最上家3代の藩主のお墓があります。本堂裏には、江戸初期の遠州流「市指定名勝」の素晴らしい庭園があります。
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山形城趾本丸「一文字門大手橋」が復元され、2006年4月22日にお披露目式が開催されました。

本丸堀をまたぐ大手橋は、長さ約22メートル、幅約5.5メートル、高さは約7メートル。発掘調査に基づいて杉や松などが使われています。
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出羽最上100万石の山形市は霞城公園(山形城趾)の桜です。
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江戸時代、長崎地区付近は船頭たちの休憩地となっており、そこにある一本の老松の枝に、鍋をつるして芋煮を行ったことから「鍋掛松」と呼ばれるようになったと言われています。
他にも、炭焼藤太が枝に鍋をかけて昼食を行った、という言われもあります。
初代の松は天災で無くなってしまい、現在は昭和52年に復元した三代目鍋掛松。

また藤太の長男である吉次は、源頼朝に追われた源義経を、平泉藤原秀衡のもとに案内した人物とされています。

参考/山形市観光協会
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1938〜1996

第47代横綱。

本名富樫剛。東田川郡山添村(現在の櫛引町)桂荒俣に農業富樫元雄、かつゑの二男として出生。

昭和29年鶴岡南高等学校定時制を中退して、伊勢ノ海部屋に入門。蔵前国技館が正式に開館した同年秋場所に、本名を四股名として初土俵を踏む。順調に昇進して、幕下、十両で各一回優勝。

33年秋場所には、19歳で新入幕を果たした。翌34年3月に、伊勢ノ海部屋ゆかりの四股名第11代「柏戸」を襲名、前頭13枚目で13勝2敗の成績を挙げ、敢闘・技能の両賞を受賞した。強烈な突っ張りと鋭い出足の、スピード感あふれる相撲ぶりから、“角界のサラブレット”といわれた。

同年11月に小結に昇進。35年初場所、新入幕で初日から11連勝の大鵬と初対決し、下手出し投げに破った一番が、以後10年間の「柏鵬時代」の幕開けとなった。同年3月関脇、同年9月大関と昇進し、翌36年初場所13勝2敗で幕内初優勝。36年9月場所に12勝を挙げると同年11月、22歳9ヵ月の若さで終生のライバルと称される大鵬とともに第47代横綱となった。

守りの相撲の大鵬に対し、攻め一筋の豪快な取り口が対照的で、柏戸の相撲を「剛」、大鵬を「柔」と形容して相撲人気を二分した。

しかし、横綱昇進後、腕や肩のケガや糖尿病などの病気に泣かされた。休場が多く、勝ち星では大鵬に水をあけられたものの、人気は衰えなかった。2場所連続全休明けの38年秋場所千秋楽、横綱同志が全勝優勝をかけて対戦し、大鵬を寄り切った一番は、大相撲史上に残る勝負となった。

優勝5回、殊勲賞2回、敢闘賞2回、技能賞4回の成績を残し、44年名古屋場所を最後に現役を引退した。

幕内在位66場所(うち横綱47場所)の通算成績は、 599勝 240敗 140休場、勝率0.714。 引退後は年寄「鏡山」と襲名。

45年、鏡山部屋を創設し後進の指導に当り、県出身の小沼、蔵王錦、多賀竜、起利錦などの多くの力士を育てた。

また、相撲協会の理事として57年から平成6年まで審判部長を努めたほか監査副委員長、指導普及部副部長等の重責を果たした。

平成8年12月8日、肝不全のため入院先の順天堂病院で死去、58歳。
平成6年5月、櫛引町第1号名誉町民。
平成8年、従五位勲四等旭日小綬章。
平成9年、第1号山形県県民栄誉章を受賞。

古今大相撲力士事典より引用


得意手 突っ張り、右四つ、寄り 身長 体重 188cm 139kg

通算 66場所 599勝240敗140休 優5同2次13殊2敢2技4


昭和39年11月 東張横  2勝 4敗 9休(急性糖尿病・肝機能障害・左肩胛骨脱臼)
昭和40年 1月 西横綱 15休    (同上)
昭和40年 3月 西張横 15休    (同上)
昭和40年 5月 西張横  9勝 6敗
昭和40年 7月 東張横 12勝 3敗 次
昭和40年 9月 東張横 12勝 3敗 優
昭和40年11月 西横綱  1勝 1敗13休(左足首関節捻挫)
昭和41年 1月 西張横 14勝 1敗 優
昭和41年 3月 東横綱 10勝 5敗
昭和41年 5月 西横綱 12勝 3敗 次
昭和41年 7月 西横大 12勝 3敗 次
昭和41年 9月 西横綱 13勝 2敗 同
昭和41年11月 西横綱 10勝 5敗
昭和42年 1月 西横綱 12勝 3敗
昭和42年 3月 東張横 11勝 4敗
昭和42年 5月 西横綱 13勝 2敗 次
昭和42年 7月 西横綱 14勝 1敗 優
昭和42年 9月 東横綱  9勝 6敗
昭和42年11月 東張横 11勝 4敗 次
昭和43年 1月 東張横  9勝 6敗
昭和43年 3月 西横綱  9勝 6敗
昭和43年 5月 東横綱  4勝 4敗 7休(右肩胛骨挫傷)
昭和43年 7月 東横綱 10勝 5敗
昭和43年 9月 東横綱  9勝 6敗
昭和43年11月 西横綱 11勝 4敗
昭和44年 1月 西横綱 10勝 5敗
昭和44年 3月 西横綱  9勝 6敗
昭和44年 5月 東横綱  9勝 6敗
昭和44年 7月 西横綱  1勝 3敗  (引退)


1868〜1928

「亀の尾」の創始者。東田川郡小出新田村。百姓。

18才のとき政府の「済救趣意書」に感激し、土地の改良と稲の選定に一生をかけた。始めは余目村の老農佐藤清三郎によって、湿田の乾田化と東北の気候にあう寒冷に強い早生稲を選ぶことの必要を学んだ。

また、1891年(明治24年)酒田の本間家が、乾田化、馬耕のために福岡県から伊佐治八郎を呼んで伝授させたが,亀治はこれを視察して帰村すると、ただちに濠を掘り乾田化にのりだし、馬耕を始めた。周囲の笑いをものともせずにこれに取り組み、強力に部落への普及に努めた。そしてこうした新しい技術に適応できる新品種を捜し続けた。

明治29年9月26日、立谷沢の中村にある熊谷神社の例祭に詣でた時、行く道々の水田が冷害で惨擔たる中に、見事な穂をつけた不思議な稲を発見して穂を持ち帰った。翌年からこの穂種の試作に取り組み、4年後の1897年には在来種を圧倒する優秀なものとして固定した。この年はこの地方はウンカの大被害を受けたが、亀治の田だけは被害がほとんどない上作で、これをみた親友の太田頼吉はこの穂種に「亀の尾」と命名した。翌年には大和村中に広がり、庄内平野はもちろん県外にも種子が送られた。

1907年頃には東北六県ををうめ尽くす勢いとなった。

1906年最上川左岸の開発を同志とともに着手し、耕地整理組合を組織、吉田堰の開削工事を起こした。これは大和・得川、その他五ヵ村の原野を美田とするものであった。4年の歳月をかけ1911年工事は完成し、1913年(大正2)には大和村全域 650歩の耕地整理を指導し、乾田化することができた。

1927年には藍授褒賞が下賜され、村・郡・県の農会が中心になって亀治翁頌徳碑が、小出新田の八幡神社境内に建立され、病床にあった亀治には二千円の養老金が贈された。

「亀の尾」は東北の王者として一世を風靡し、その作付けは20万町歩に及んだが、のちドイツから科学肥料が輸入されるようになると、稲熱病に弱くなり、「陸羽 132号」さらに「農林1号」へと改良され発展的解消をとげた。

※青木恵一郎氏「農林水産業につくした人々」より引用
小松 均(こまつひとし)

1902〜1989

日本画家。孤高の画仙人として有名。

山形県北村山郡大石田町豊田生まれ。
曹洞宗延命寺住職小松梅男の長男。生後2年満たずして父歿。
母子で村山市白鳥に移住、16才まで過す。
白鳥小学校、富並尋常高等小学校卒業後、画家を志して上京。
川端画学校に学び、のち京都に移り、国画会の土田麦僊に師事、
戦後、院展の同人に推挙された。

早くから水墨画に興味を持ち、線を強く彫り込むような独特な描法は、実在的な感銘と一種の土俗的なひびきをたたえており、それがまたある反主流的な雰囲気をまとって、院展における異色の存在となった。

京都の大原に居を定め自給自足の生活に入り、世俗とは無縁の暮らしを貫いたが、雄大で力強い風景画と飄々とした生活、風貌から「大原の画仙」と呼ばれた。

「櫟木」帝展特選(1929)。「牡丹」院展日本美術院賞受賞(1946)。「吾が窓より(夏山)」院展文部大臣賞受賞(1965)。「最上川シリーズ」芸術選奨文部大臣賞受賞(1975)。「雪の最上川」院展内閣総理大臣賞受賞(1979)。文化功労者(1986)。最上川の全ルートを描くのを念願とした壮大な連作「最上川シリーズ」は未完となった。 大石田町名誉町民。村山市名誉市民。 近代日本美術事典より引用

参考書籍

・最上川への回帰−評伝小松均−. 真壁仁 法政大学出版局.
・画人・小松均の生涯−やさしき地主神の姿−.田中日佐夫. 大阪東方出版
・ぼくのむら−絵本−.至光堂

写真家/土門 拳(どもんけん)

1909〜1990
山形県飽海郡酒田町鷹町(現酒田市相生町)生

日本ではじめての写真専門美術館「土門拳記念館」には、生前、土門拳と親交のあったイサムノグチの彫刻、勅使河原宏の庭があります。展示作品は、ポートレート、報道写真、古寺、仏像など季節ごとに変わります。飯盛山、あじさいの美しい公園、心洗われる場所です。



<参考書籍>

古寺を訪ねて―東へ西へ

内容(「BOOK」データベースより)
戦前から車椅子生活になっても続けた古寺巡礼。シリーズ4冊目は、全国を撮り歩いた中から藤原三代の栄華・中尊寺、敬愛した夢窓国師ゆかりの永保寺、日本第一の建築と称賛した三仏寺など傑作を名エッセイとともに収録。巻末で、写真家西川孟氏が"人生の師"と助手時代を回想。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
土門 拳
1909 ̄90年。山形県酒田市生まれ。1935年、日本工房に入社、報道写真家としてスタートする。39年、はじめて室生寺を訪れ、翌年から古寺巡礼を開始。戦前戦後を通じ寺院の建築、仏像を撮り続け、好きなものだけを対象として、クローズアップしてとらえる

土門拳 腕白小僧がいた

土門拳 強く美しいもの―日本美探訪

木村伊兵衛と土門拳―写真とその生涯

木村伊兵衛と土門拳 写真とその生涯

内容(「MARC」データベースより)
昭和を代表する写真家、木村伊兵衛と土門拳。スタイルもテーマも好対照に見える二人が追い求めた写真とは、何だったのか。二人の比較を通して見えてくる、巨匠たちの新たな魅力。95年刊の再刊。
1882〜1953
歌人、医師。山形の鴎外と歌われた。
上山市金瓶(南村山郡金瓶村)生れ。
農家守谷熊次郎の三男。

「最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片」
「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」
「蛍火を一つ見いでて目守りしが いざ帰りなむ老の臥所に」
「高原の沼におりたつ鸛ひとつ山のかげりより白雲わきて」

「足乳根の母に連れられ川越えし田こえしこともありにけむもの」
「朝ゆふはやうやく寒し上山の旅のやどりに山の夢みつ」
「陸奥をふたわけざまに聳えたまう蔵王の山の雲の中に立つ」
「たましひを育みますと讐えたつ蔵王のやまの朝雪げむり」
「万国の人来り見よ雲はるる蔵王の山のその生けきを」

 逆白波、赤光、白き山、赤蜻蛉、つばくらめ、白雲、乳汁の色など
 色彩表現豊かな短歌を多く残した。

明治29年上山小学校高等科を卒業したが、8月上京して親戚の斎藤紀一家に寄寓し府立開成中学に編入学した。紀一は当時浅草で浅草医院を経営していたが、成績のいい茂吉を招き、進学の道をひらいたといわれる。

38年7月斎藤家に入籍、同月一高を卒業し、東大医科大学に進んだ。
39年自作を添えて伊藤左千夫に手紙を送り、それを機に3月自宅を訪ねて入門。
明治41年10月「阿羅々木」(アララギ)が創刊され、左千夫とともに積極的に活動する。また、「アララギ」の編集を担当し、活発な作歌、評論活動を行った。その後新歌風への脱皮をめざしたが、文壇の動揺期にあって、左千夫と対立論争をよぶなど波乱の時期を経る。
大正12年7月左千夫が急逝し、「アララギ」の中心世代の交替をみるが、10月「赤光」が出るにおよんで茂吉の存在が広く一般に注目をひくに至った。

大正3年4月、紀一の次女てる子と結婚。
12月長崎医専教授となり同地に赴任したが、一種のゆきづまりに直面し、一時作歌活動を中断する。
大正10年10月ウィーンおよびミュンヘンに留学。
14年1月帰国したが、その直前に青山脳病院全焼の非運があり、再建のために困難な生活を送った。

しかし、再び歌壇に登場した歌は大正中後期の沈滞を脱し、気概に満ちた万葉調によって新しく「ともしび」の歌境をひらくに至った。島木赤彦死去(大正15.3)後は「アララギ」をも背負っての活動も続けた。

昭和2年4月に青山脳病院長に就任。翌年末には養父紀一の死を見送った。その後生活の安定化にともなう歌境は漸次洗練と平淡の道をたどった。「暁紅」「寒雲」「白桃」 は戦前の代表作であるが、そこには秘められた恋愛にからむ微妙な心情の襞も陰見し、全体として悲哀、寂蓼の感が深い。

昭和20年4月、郷里金瓶に疎開した茂吉はそこで敗戦を迎えるが、一国の非運に逢会しての悲歌は痛哭の情を極めて比類がない。
昭和21年2月、大石田に移居した茂吉は、そこで生涯の高峰「白き山」の歌をなし、22年11月帰京した。次いで「たかはら」「連山」「石泉」の三歌集を刊行した。
昭和26年文化勲章受章。
28年自宅で没した。戒名は自撰の「赤光院仁誉遊阿暁寂清居士」。

日本近代文学館「日本近代文学大事典」より引用



斎藤茂吉歌集 岩波文庫
内容(「BOOK」データベースより)
茂吉(1882‐1953)は近代短歌の第一人者であり、日本の近代精神を体現した文学者の一人でもある。40年にわたる作歌活動によって生まれた全短歌から1688首を精選した。初期の生命感の躍動するなまの表現から、次第に複雑な人生の味わいをたたえる沈静へと移ってゆく。本歌集は、茂吉という個性あふれる作家の、精神の自叙伝でもある。

目次

赤光
あらたま
つゆじも
遠遊
遍歴
ともしび
たかはら
連山
石泉
白桃〔ほか〕

赤光 岩波文庫

出版社/著者からの内容紹介
万葉以来の日本的伝統と西欧近代の精神と,作者その人の生との完全な融合を示して,茂吉および「アララギ」の歌壇での位置を決定した歌集.強烈な人間感情の表出は,一般文芸界にも衝撃を与えた.作者みずから定本とした改選版に,発表当時ひろく反響を呼んだ初版本(大正2年刊)を付載.新たに初句索引を付す.(解説=柴生田稔)

内容(「BOOK」データベースより)
万葉以来の日本的伝統と西欧近代の精神と、作者その人の生との完全な融合を示して、茂吉および『アララギ』の歌壇での位置を決定した歌集。強烈な人間感情の表出は一般文芸界にも衝撃を与えた。作者みずから定本とした改選版に、発表当時大きな反響を呼んだ初版本(大正2年刊)を付載。初句索引を付す。

目次

自明治三十八年至明治四十二年
明治四十三年
明治四十四年
大正元年
大正二年
初版赤光